ここ3ヶ月くらいの間に、
私の近くで、
平均寿命の半分ちょっとで亡くなった方がいて
心臓を悪くして仕事を休むことになった人がいて
精神的にキツくて職場に行けなくなった人がいました。
普段私は、健康な人に囲まれて生きているわけですが
意外と人は簡単に死んでしまうし、病気になってしまうみたいです。
社会という大きなメカの中で歯車の1つとして一生懸命に動いていると、
時に自分が人間であることを忘れてしまいます。
休むことなく黙々と、
錆びついた身体に気付かぬふりをして、
くるくると回り続けるのです。
それが求められているのです。
でも私はロボットではないから
仕事が終わる頃には疲れが溜まっているし、
嫌なことがあった時には憂鬱だなと感じます。
そう、私は、
社会というメカの中で、たまたまこの歯車を担っているだけの、
ロボットではない「人間」なのです。
命あるものは、心も身体も時間も、みな限りがあります。
さて私は、
近くにいた歯車を、人間として見れていたのでしょうか。
3ヶ月前にあの歯車がこっそり消えたと知った時、私は、私に当たり前にできていると思ってきたことを疑いました。
その歯車の悩みや、疲れや、守りたいものといった人間的な側面に、どれだけ想像を膨らませてきただろうか。
いなくなると考えるものです。
残された家族はどうなるんだろう、とか、
これまで幸せに働けていたのだろうか、とか。
メカの中にいると、
とにかく効率的に回り続けることが求められます。
メカの方から「あなたは幸せですか?」と歯車たちを気遣うことはないんです。
壊れた歯車や消えた歯車が出てしまっても、付け替えてしまえばそれでOKなわけです。
メカには求められていなくても
しんどそうな歯車がいたら、自分も停まって寄り添ってもいい、
消えてしまった歯車のことを悲しんでもいい、
自分の錆が酷くなる一方なら、別のところに転がっていってしまってもいい。
壊れて治して戻ってきた歯車さんと一昨日久々に雑談をして、
あぁ生きてくれていてよかったなと、ほっとしました。
私の周りの頑張り屋さんな歯車たちが、等しく幸せでありますように。