車を入手してから数日経ち、
昼間はあちこち出掛けています。
先日、隣町の図書館へ行きました。
子どものための読み聞かせの会に参加するために。
図書館というと、何を思い浮かべますか?
私は、やはり、本。これに尽きます。
しかしこちらの図書館には、子ども向けのおもちゃや、大人も没頭できるジグソーパズル、ゲームなどもあるようです。
もちろん本の言語も日本語と英語で違うのですが
たくさんおもちゃのあるプレイルームで、子どもたちは、土足の場所に座ってそれぞれ夢中になって遊んでいます。
地べたに座るのに、靴を脱ぐ場所、ないんだな。(その日は外は雨でした)
不衛生だとか言いたいわけではなく、
その場にいる人の中でたぶん私だけが、そう思いました。
定刻になり読み聞かせが始まると
もちろん絵本や手遊びはみんな英語。
イベントの最後に登場した地球の塗り絵は
アメリカが真ん中にあって、日本は真裏で見えません。
この向きからの地球、なんか新鮮だな。
日本が無いことがショックだったわけではなく、
その場にいる人の中でたぶん私だけが、そう思いました。
外国人の多くないエリアで、
日本人は社内の出向者だけ、
アジア人も今のところ見かけません。
見かける方はみんな鼻が高くて、英語の発音がとても綺麗で、すごく大きい人がいる。
私はたぶん、道ゆく人たちとは違うメガネで、今ある景色を見ています。
もちろん「道ゆく人たち」にもいろんな方がいて、それぞれメガネの色も厚みも縁の形もさまざまなのですが
やはり私は、「みんなと違う」。
髪が黒くて、英語が上手に話せなくて、この地に来て歴が浅い。
マイノリティなのです。
それと、娘も。
日本で娘を保育園に通わせていた頃、
お友達の髪は黒くて、
親御さんも先生も日本語のネイティブで、
絵本や手遊びは日本語で、
給食にはお米やお味噌汁がよく出ていたから気が付かなかったけれど
私は日本で、ずっと多数派でした。
そして娘は、遠い地アメリカに来て
おそらくほとんどカルチャーショックを受けていません。
「靴脱がないんだ」とか、「地球の真ん中に日本が無いな」とか、「図書館なのにおもちゃがあるんだ」とか、思わないわけです。
今後この地で娘が育っていく中で、早速、
娘と私の「当たり前」に差ができていくと思います。
まだ今の私は、娘が「寂しそう」とか「かわいそう」とか、勝手に感情を想像してしまうことが多々あるのですが
自分の感じた通りに娘も感じるはずだとか
同じメガネで見ているはずだとか
「当たり前」を押し付けないようにしないとなと。
前々から感じていることではありつつ
自分の無意識の「当たり前」を突きつけられている今
ひしひしと感じるのでした。
〜おまけ〜
私は大学時代に1年間、中国へ交換留学していたことがありますが、
・留学生=周りに外国から来た学生がたくさんいる
・学生=授業やホームステイなど、好きなだけどっぷり言語や文化に浸かれる
環境だったのだなと今感じています。
今の環境の方が、よりマイノリティだと感じるし
娘にとって今の私は、日本と娘を繋ぐ架け橋のような存在なので
日本語や日本の文化に触れさせることも怠りたくはありません。
住む場所(田舎感)や単身/帯同 等でも変わってくることですが。
学生の頃より歳を取って、守るものが出来て、
未知を嫌厭しがちな今、
海外暮らしはとっても良い経験になっていると感じます。
今の私はアメリカ出向の夫にひょこひょこついてきて、
娘と家庭を中心に1日が回っています。
学生の頃より、好きなように行動できるわけでもないし
自分で道を切り開いたわけでもなんでもないですが
だからこそ気楽に、思うままに、今ある制約とカルチャーショックを活かして味わいたいと思います。