祖母の死

今年は父方の祖母の17回忌。

冬晴れの今日、お寺でお経を読んでもらいました。

 

祖母が亡くなったのは、私が小学生の頃。

買い物も自力で行けていて、大きな病気の無かった祖母。訃報は突然でした。

 

「おばあさま、死んじゃったんだって。」

そう聞いた途端、頭が真っ白になりました。

人はいつか死んでしまうこと、それは理解していたと思います。

でも、またすぐ会えると思っていた人が、もう生きていないという事実が、とてもショックでした。

 

死ぬということ。

それは私には、なんだか縁遠いことでした。

たくさんいる兄弟のうち何人かが、飢えや病気で小さいうちに亡くなったり、お肉を食べるにも、自分たちの手で家畜を殺めたり。そういうことを、経験してきませんでした。

お葬式に参列するのも初めてでした。

 

お葬式会場では、棺を覗いて祖母の顔を見ました。「お顔を触ってもいいですよ」と言われたけれど、怖くて触れませんでした。

火葬の後には、大きなお箸を使って、祖母の骨を骨壷の中に入れました。

元気だった祖母の顔が真っ白になって、焼かれた後には骨だけになって。少し前までは生きていた1人の人間が、骨壷にすっぽりと納められてしまう。

それはとても強烈な出来事でした。

「私もいつか、死んじゃうんだ…」

しばらくは、怖くて寝れない日もありました。

 

 

もし、祖母が生きていたら。

そう思ったことが何度もあります。

中学でバイオリンを始めた時。

高校で生徒会長を務めた時。

父と同じ大学に入った時。

祖父の生まれた満州を訪れた時。

中国へ留学に行った時。

成長の一つ一つを、きっと喜んでくれたんじゃないかな、と。

 

祖母との思い出は多くは無いけれど、祖母の死は、間違いなく今の私の一部を作っていると思います。

泣いてしまう夜を何日も経験して、「死ね」と言ってはいけない理由も、自分を大切にしなければいけない理由も、よくわかりました。

いのちの重みは、死を実感してこそずしりと感じられるものだと思います。

そして、その祖母の死を隠さず見せてくれた両親にも感謝しています。

 

17回忌を終えてお寺を出れば、すぐに日常が顔を出します。

まずは家族と遅めの食事。

当たり前だけれど、生きていないと出来ないことがたくさんあります。

お腹が空くって、居場所があるって、生きているっていいもんです。

おばあさま、いのちの授業をありがとう。